静音の小径 其の2

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zoom RSS これが戦争の現実・・・母の命日に

<<   作成日時 : 2017/06/05 13:46   >>

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【NHK 証言記録 兵士たちの戦場】
飢餓の島 味方同士の戦場 〜金沢 歩兵第107連隊〜



飢餓の島 味方同士の戦場 〜金沢 歩兵第107連隊〜NHK 証言記録... 投稿者 nihonnihontonikakunihon

2011年6月5日
わたしの母は91歳で亡くなった
あれからもう6年

今日は母の命日
特別な宗教もないわたしはなにもしないが
母を思う気持ちだけはいっぱいある



母の遺品の中に
「終戦三十三周年 ミレー島戦士の碑建設記念誌」
と書かれた青い冊子を見つけたのは
このマンションに引っ越してすぐだった

この冊子の59ページに紙が差し込まれていた
蛹エ徳三の名にチェックがされていた

昭和20年5月20日 富山市有沢2404 蛹エ徳三 とある

母の亡夫だ

母が死の直前まで
あんなに愛してやまなかった人

天国に行ったら会えるわね
でもわたしこんなにお婆ちゃんになっているから
あの人はわたしだってわかるかしら?

晩年の母の一番の心配事は
こんなあどけないことだった


この冊子で徳三さんが
「金沢歩兵第107聯隊」に所属していたことを知る

赤紙で招集された後
金沢の連隊場に自分の母と一緒に
おはぎを持って会いに行ったと聞いた

初年兵で上への気遣いから神経を使っている姿に
上手く話せなかったとも

冊子によると、旧山砲兵第十六聯隊第三大隊(第7中隊欠)の
第九中隊に所属していたようだ
ミレー島上陸後、編成改正により歩兵第百七聯隊砲兵大隊と改称されたようだ


冊子の趣意書には
「・・・
この裏には幾百万の尊い同胞の犠牲者があったことを
永遠に忘却してはならず、平和の礎となり今尚、
異国の地に身を晒し骨を埋め母国に帰らぬ
数多くの戦友のあることを想起し
・・・
亡き戦友の冥福と世界の平和を永遠に祈願すると共に
その意思を永く後世に伝え残す為
・・・」とあった


次にわたしがしたことはネット検索
いい時代になった

そしてよき時代のNHKの特集に出会った
時間の許す限り聞いてみてください


NHK[証言記録 兵士たちの戦争]
飢餓の島 味方同士の戦場 〜金沢 歩兵第107連隊〜
http://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/bangumi/movie.cgi?das_id=D0001210035_00000

ミレー島は戦況の悪化とともに、アメリカ軍の支配地域に取り残される。
2年近く補給は途絶え、兵士たちは飢えのために次々と倒れていった。
最も多くの犠牲者を出した部隊が、石川県金沢市で編成された陸軍歩兵第107連隊。
107連隊が ・・・

[番組紹介]
日本から南東におよそ4600キロ。
太平洋の中部、マーシャル諸島にあるミレー島。
太平洋戦争中、ここに5700人の日本軍将兵が送られ、3100人が命を落とした。
ミレー島は戦況の悪化とともに、アメリカ軍の支配地域に取り残される。
2年近く補給は途絶え、兵士たちは飢えのために次々と倒れていった。

最も多くの犠牲者を出した部隊が、石川県金沢市で編成された陸軍歩兵第107連隊。
107連隊が派遣されたとき、島にはすでに3000人を超える海軍部隊が配置されていました。

補給の途絶えた島に駐留した陸軍と海軍
食糧不足が深刻化すると、同じ日本軍でありながら、両者は激しく敵対するようになる


敵と戦うことなく、次々と命を落としていった兵士たち
日本から遠く離れた小さな島、ミレー島に取り残された歩兵第107連隊の戦争を描く。


画像





ミレー島とは南太平洋マーシャル諸島の環礁

そのミレー島に陸軍と海軍合わせて
5700人が駐屯していたがなんとそのうち3100人が死亡
しかもその大半は、敵との戦闘による死ではなく餓死
なぜ、そんなことが・・・
これが戦争の現実だった


「あんなもん、戦争じゃない。島流しや」
「泥棒の寄せ集まりや。日本の兵隊と味方同士の戦争やった」
「あんなもん、戦争やない。餓鬼道地獄やった」

こんな事実を母が知らなくてかえって良かったのかもしれない


昭和20年の敗戦の夏、戦争が終わったことを喜び
秋風とともにぽつぽつ戦地から帰還兵がもどりはじめ
「あの人が帰ってくる・・・」と幼子を抱きしめて毎日待ちわびた母

夫が遠い島で餓死したことも知らず
いくら待っても帰って来ないので
夫と同じ聯隊だったという人の家を一軒一軒訪ね歩いた母

どの家でも生ける屍のようになって帰還兵は横たわっていた
「蛹エ徳三はどうしたでしょうか」と聞けるはずもなかった

ようやく少し視線の合う人に出会った
「ああ、蛹エさんのお陰で俺たちは生きたのです。
あの人は海に潜って銛で魚を取って来てくれた。
それで俺たちは生きのびた。
しかしあの人は海に潜っていて敵機に撃たれて死んだ。
奥さん、すいません。・・・」とその人は布団を被った

お寺から連絡が来た日
戦火の中も肌身離さず持ち歩いた夫の背広を抱えて
上市のお寺に行った母

しかし石ころ一つ入っていた木箱を渡されたのみ
その木箱に背広を被せて婚家に帰った母

赤紙一枚で夫は兵隊にさせられて
石ころ一つになってわたしに返ってきた
これが天皇の名で行われた聖戦だというのか

翌年幼子は焼け野原の衛生状態が悪い街で亡くなった
もう母はなにも信じない人になっていた

こんな母を思うとわたしは今でも胸が張り裂けそうになる


ネットで「新聞記者が語りつぐ戦争9 遙かなるミレー」
という本を手に入れる

母が生きているうちに調べてあげていれば
せめてもう少し早くに
でもどうだったのだろうか・・・

ミレー環礁とはミレー島とは
写真だけでも見せてあげていれば

今となってはもうなにもかも手遅れだけど
それでもわたしにとっては意味のあることに

1914年、日本は第一次世界大戦で当時ドイツ領だった
マーシャル諸島を含む南太平洋群島を占領した
本土から5千キロ、日付変更線に最も近いミレー環礁を
領土とすることで日本はまさしく「日出づる国」になった

そのミレー島で一体なにが行われていたのだろうか
ほんとうに蛹エさんはアメリカ機に撃たれて死んだのだろうか

1943年10月8日
金沢駅から陸軍歩兵第百七連隊第三大隊の主力数百人が
広島宇品港に向けて出発


ここはもう少し本をじっくり読んで
母のことはもう誰も残っていないので
調べようもないが、あとは想像力で




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コメント(12件)

内 容 ニックネーム/日時
こんにちは。
兵士たちの戦争のビデオを拝見しました。太平洋の真ん中にある小さい孤島に、食料の補給もなく取り残されて、兵士たちは飢えのために次々と倒れていった様子は、悲惨で酷い事ですね。当時の政治家と将軍や高級将校達の罪の深さに絶句します。涙なくして見れません。平和の尊さをあらためて実感します。

最近の世相を見ていると、テロの頻発・自国第一の保護主義・政権の延命と言論の封殺に危機感を抱くのは、良識ある市民であれば誰もが考えている事でしょうね。

人間の持っている『煩悩』と言う『恐ろしい化け物』が大きく成長すれば、この様な事態になります。108個の煩悩を上手にコントロール出来る人は立派だと言えます。人は煩悩に流されて自己を見失わない様にしなければなりません。お金や財産・社会的地位・名誉や勲章・等々のこの世の栄華はあの世には持っていけません。

私は毎朝のお勤めで仏壇に向かって在家勤行次第のお経を、ご先祖様に唱えています。
華の熟年
2017/06/07 14:39
 ののはなさんのお母様の最初の御主人が南方に行くために金沢を発ったのは、1943年(昭和18年)10月8日のこと。私の父は昭和17年9月に徴兵されたあと、昭和18年10月に幹部候補生を拒否し、18年末には南方に送られることに。19年1月に輸送船で南方に行く途中台湾海峡でアメリカの潜水艦に魚雷攻撃を受けるも父の乗った船にあたった魚雷は不発で生き延びる。そしてマニラ経由でインドネシアの東部、ニューギニア島に隣接するハルマヘラ島へ送られた。ニューギニア奪還のための拠点である隣島のモロタイ島航空基地への食糧増産が任務であった。しかし直後の19年2月にモロタイ島が米軍に占領され、父の部隊はハルマヘラ島の奥地に避難。そのままジャングルの中で21年5月まで暮らす。幸い農兵部隊だったので農具があり農業にも詳しい。現地人にこの土地に合う作物を教えてもらって何とか食料を確保。それでも足りなくて木の実や野生動物を狩りして食べたと。隣のニューギニアに残された日本軍将兵の多くは餓死したのと反対に、父の部隊はなんとか生き延びたようです。でも戦争中の話は聞いたことがありません。死後父の自伝草稿が出てきてそこに書いてあった。香典返しに本にしましたが。「聖戦」と標榜する戦は、どれも酷いものですね。じっくりビデオを拝見します。
コアラ
2017/06/08 14:23
これも供養かと、ビデオ拝見しました。
悲惨ですね。
時々観てますからね。
玄徳
2017/06/09 14:58
日本酷のトップを始め、上層部や指導部とされる者達は、己の事ばかりが最優先であり、下々とされる国民の事に関心はない様です。

独裁体制下の権益組織と、その支配体系は、○朝鮮のそれと基本的に何ら変わる事がない様に感じられる今日この頃の日本の政治とブラック化の進む日本社会です。

kazukun
2017/06/09 18:50
♡゚。華の熟年さん゚。♡
コメントいただきながら、PCとご無沙汰続きの毎日で失礼しました。
ほんとうにそうです。涙なくしては見られません。ひどい話です。アメリカ兵と闘ったのではなく、飢餓との戦いだったようです。これが戦争の実態だったのですね。今、本を読んでいますが、あんなに日本から遠い島に孤立させられて、どんなにか。きっと人には言えないことも起こっていたのではと思うとぞっとしますね。
この頃平家物語のCDを聞きながら眠りについています。どうも毎晩同じ所を聞いているとだんだん難しい言葉も理解できるようになる事を知って驚いています。
 人が人らしくあるってどういう事なんでしょうね。昨日、来年から小学校で使用される道徳の教科書の展示会に行ってきました。育鵬社とつながりができたという「教育出版」の本が突出しておかしいようでした。君が代の意味が書いてありましたが、とても納得できない内容でした。国旗国歌を扱っているのはここだけのようでした。どんどんおかしくなっていくようですね。
 
ののはな
2017/06/19 22:42
♡゚。コアラさん゚。♡
コメントありがとうございます!
コアラさんのお父さまはモロタイ島だったのですね。同じような運命。なんともむごいですね。でも農業ができてよかったのですね。「自伝草稿」を残されたのはありがたいですね。わたしの父のこともっと詳しく聞いておくべきでした。父はあまり多くを語らない人だったので。フィリピンに輸送される途中でやはりアメリカの潜水艦に魚雷攻撃されたようですが、父は気がついたら砂浜で魚のようにのびていて捕虜になったので、助かったと言っていました。なぜならそれから食糧事情が良くなったとか。それは一体いつ頃のことなのか、きちんと聞いておくべきでした。
柳原徳三さんのことは、今、本を読んでいろいろ想像するだけです。それでも少づつわかってきました。
小さな島に大量の日本人、もうアメリカの攻撃もないのにみんな餓死していったと知るとほんとうに哀しくなります。ところで今の政権は一体なんなのでしょうね。
ののはな
2017/06/21 20:07
♡゚。玄徳さん゚。♡
いつもご訪問ありがとうございます!
そうですね。6月は母の亡月なので、居間に写真を飾り、花を飾っています。
年月とともに、あれで良かったのだ、あれで精一杯だった、と自分を許せるようになっています。父は7月。もうすぐです。肺がやられていたので、あれ以上苦しめたくなかった。ただ、70代に田舎にいて、あまりいい生活出来ていなかったのではと思うとつらくなることあります。わたしもあの頃、病気なっていて、富山に行けないので、息子に行ってもらったら、「おじいちゃん喘息だよ。喘息の薬処方されていたよ」という情報を持って帰りました。その前に帰郷したときに、「もう帰るのか」と寂しそうな顔して玄関まで送って出てきた姿を思い出します。もう車に乗れず寂しかったのかと思っていましたが、病魔が父に迫っていたのですね。それにも気づかずと思ってかわいそうなことをしたと思うものの、わたしもあの頃職場で病休を取らねばならないほどの痛みと闘っていて。まあ仕方なかったと。時って自分を癒やしてくれます。ところでお身体大丈夫ですか。無理なさいませんように。またお会いできるといいのですが。こちらにはゲストルームもありますので、こちらにおいでの時はお声をかけてくださいね。
ののはな
2017/06/21 20:19
♡゚。kazukunさん゚。♡
最近、ほんとkazukunさんの言われることがよくわかるようになりました。
わたしはよほど幸せな人生だったのか、世の中の暗部を見ずに生きてきてしまいました。で、どうして?と理解できないことが多いのですが。
そうです。北朝鮮の張っているのではないかしらと思うばかりの今です。世の中の人々はそのことに気づいているのかしら。毎日怒りばかりです。
ののはな
2017/06/21 20:23
あららご丁寧な返信で、恐縮です。
以前は公職で年に一度上京してましたが、今は無くなりました。
全くの私信で戸惑いますが、ののはなさんのご意思に反しないものと思い、
プライベートなことも書きますね。
田舎への墓参りは、9月に定着しました。
今年もお参りしてきますね。
年に一度、田舎の民宿で兄弟集まるのが、恒例となりましたよ。
集合住宅の花壇作り等など、楽しく拝見してますよ。
玄徳
2017/06/23 10:08
 私の父が南方の最前線に送られて無事ついたのが、19年1月とのこと。行先はフィリピンよりもっと南。ニューギニア島の西側のインドネシア群島の一番東側。香料諸島と呼ばれる島々の中のハルマヘラ島。そのすぐ東にあるモロタイ島のその東がニューギニア島。そして父の自伝によると、この時の便が、南方まで無事に着いた最後の便だとのこと。以後は途中でアメリカ軍の潜水艦の魚雷攻撃によって、フィリピンにすらたどり着かなくなったと書いてありました。
 ののはなさんのお父様がフィリピンに送られる途中で魚雷攻撃にあって幸運にも砂浜に打ち上げられて捕虜となったと。つまり19年1月以降の時期だということはわかりますね。本当に戦争も最末期。日本軍はすでに制海権すら失っていた時期のことでした。それでも戦を続けるとは。
 父は軍隊に入るその前の17年のドリットル隊の日本空爆を見て、敗戦を確信したそうです(もともと負けるとは思っていたが)。1942年(昭和17年)4月18日の正午過ぎ。芝浦埠頭の際にあった会社の昼休み。埠頭の岸壁に寝そべっていた父の頭の上を、見かけない大型機の編隊が東から接近し東京上空を西に飛んで行った。B25爆撃機10機以上の編隊による最初の空爆。空襲警報もなく迎え撃つ迎撃の戦闘機もとびたたず、高射砲も放たれず。全部後手後手になった。これを父は見ていたのだそうです。
コアラ
2017/06/25 23:05
♡゚。玄徳さん゚。♡
空梅雨?もう梅雨明け?って感じの東京です。九州の人たちのところにはひどいことに。自然ってどうしてこんなに荒々しくなったのでしょうね。何かが大きく変化していますね。お気の毒でTV観ていられませんね。
田舎への墓参りでご兄弟の親交を温められているのですね。いいですね!
富山はいいところですからね。1昨年でしたか、砺波の方に行きましたが、父が好きだったところを歩きました。氷見も好きでしたね。長男が富山に行ったときはよく氷見に連れて行ったようです。子どもたちもキトキトの寿司が好きです。三男は福井の恐竜を見に行って、富山の寿司食べに寄ったようです。おかしいけれど、わかるような気もします。庄川から上流の伊那谷あたりはわたしの好きなところです。五箇山の絵を今挑戦中です。では、毎日暑いですけれど、体調を崩されませんように。
ののはな
2017/07/09 15:10
♡゚。コアラさん゚。♡
コアラさんのお父さまは香料諸島の中のハルマヘラ島ですか。お父さまが自伝を残されたのはすばらしいことですね。わたしが愚かだったのか、父がなにか残していないかと探したのですが・・・残念なことに母が語ってくれたことしかわたしには記憶になくて。19年1月以降の時期ですか。ありがとうございます。一番状況が厳しいころに招集されたのでしょうね。もう少し探してみようと思います。
ののはな
2017/07/09 15:20

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