神話の陰に②

う~ん、なるほど
そうだなってぽんと手をうつ
いつも感情でうごくわたしに
理論を教えてくださるコアラさんに感謝

komichiさんもコアラさんの意見を
読んでくださったようで
これを読んで賛同下さる方も多いのでは
と改めて記事にすることにします

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母がいま
91年の長き命を閉じようとしています

先週からいつもの緩和ケア病棟に入院中でした

ところが義母が大腿頸部骨折
救急車で運ばれた病院では手術もできず
行ってみたら、保存療法といって寝ているばかり
目も見えなくなっている義母だけれど
うちの母より意識もはっきりし
「シンネだろう、元気だね」と
やれるかぎりのことをして
それでも寝たっきりになるなら仕方がない
しかしはじめから可能性は捨てるべきでない
手術をし、リハビリもしてくれる転院先を探し
ようやく転院
その間母への見舞いが遠ざかっていた

日曜日に呼び出されていくと、もう脈が乱れていた
今朝出勤前に電話があり、酸素量も悪いので
病院に来てほしいとのこと
なんとか仕事を終えて駆けつける

母の頬はこけ
ハーハーと息をしている
脈は速く乱れている

朝自転車をこぎながら流れつづけた涙
いま ようやく
どんなに母を愛していたかを知る

もう一度母の口にゼリーを
美味しい?って聞いてみたい

医者はそれは本人を苦しめるだけと


母と義母のことで
東京の西と東を走り回ることになりそうです

しばらく留守がちになりますがコメント欄をのこします
お互いに意見交換される場となればいいと願いながら


写真は先月行った佐倉城址
初夏の日差しに緑の空気は美味しかった
母にもあんな美味しい空気を吸わせてあげたい


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コアラさんのご意見

なぜ震災復興と原発事故終息が見えず大変なときに、
菅を引きずり落そうとの動きの背後に何があるのか。
福島の事故はすべて自民党の責任。
事故直後の政権の対応は特に問題ない(IAEAもそう認定)。
仮設建設などが遅れているのは、災害が大規模すぎるだけ。
復興予算がくめないのは財源の問題。
つまりどれも菅政権の失政ではない。

では菅が非難される理由は。
一つは菅が脱原発に踏み込み始めたこと。
このままだと自民党時代の原子力政策の暗部が暴かれる。
当然ここには自民党の元重鎮小沢も関与している。
そして環太平洋パートナーシップ協定。
菅はこれを先送りしようとした。
自動車産業など財界は怒り心頭のはず。
菅おろしはこういった理由では。

そして不信任に民主党から大量造反がでなかったのは、
鳩山の賛成発言にもかかわらず
鳩山派で同調したのはわずか二人。
小沢派以外はこんな非常時に権力闘争すべきではない
という常識に従った。
窮地に陥った鳩山に鳩山を取り込みたい菅が手を差し伸べ、
鳩山は菅の辞任表明と引き換えに不信任反対に回った。

 こうして不信任賛成は小沢側近だけで
信任案は否決され
菅は鳩山との約束は反故に。
これが今回の真相では。

また国民の中に脱原発派が増えてくるに従い、
支持基盤の欲しい菅は、
どんどん原子力政策の暗部をあばいていく。
勿論民主党の多数派も原発推進
(小沢派も鳩山派も前原派も旧民主党も)で
菅は閣内でも孤立しているのだから、
そうはさせじと、
政権幹部がたがをはめようとし菅早期辞任を言い出した。

つまり菅にこれ以上脱原発に踏み込むのなら
辞めさせるとの脅し。
すでに政権の内外で推進派と脱派の死闘が
始まっていると見るべきでしょう。


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前回の連載の続きです
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*朝日新聞2011.5.29朝刊
◆神話の陰に―福島原発40年⑤ 

トラブル隠し 体質今も
 2002年8月29日。福島県庁に午後5時過ぎ、東京から1枚のファクスが届いた。

 差出人は、経済産業省の原子力安全・保安院。「重要な発表がある」とあるだけで、内容は書かれていなかった。

 だが、県側が情報収集を進めると、その内容は、東京電力の福島第一原発や第二原発で、自主点検記録のデータ改ざんや、原子炉内のシュラウド(炉心隔壁)のひび割れを虚偽報告するなど、長年にわたるトラブル隠しが発覚した――というものだった。

 外出先から県庁に戻った当時の県副知事、川手晃(57)は、東電より前の午後7時15分から記者会見を開き、「国は何をしていたのか」「こういうことなら、今後、国の原子力政策には一切協力できない」。国を標的とする厳しい言葉を浴びせた。これは、原子力政策全体への不信を募らせていた当時の県知事・佐藤栄佐久(71)の指示による発言だった。

 1988年の知事選で初当選した佐藤は、もともとは原発に理解を示していた。だが、就任5カ月目の89年1月、福島第二原発3号機で原子炉の再循環ポンプが破損し、部品が原子炉内に流入するという事故が発生。その連絡がまず東電から国に入り、国経由で県や立地町に届くという「地元軽視の姿勢」に驚いた。

 目の前の原発で事故が起きているのに、二次的にしか知らされない状況を打破するため、佐藤は国側に地方自治体との役割分担を求めたが、「完全に無視された」と言う。

 「『原発は安心、安全だ』と国は言うが、本当にそうなのだろうか」。不信感を持った佐藤は、原子力の専門家もいなかった県庁で安全対策部門の増強に乗り出す。2001年からは「エネルギー政策検討会」を設け、招いた原子力専門家らとの公開議論で、理解を深めていった

02年のトラブル隠し問題を機に、独自の調査能力を高めた福島県のOKがないと、東電は国が認めた場合でも原発を運転できなくなった。問題の発覚以降、県内全10基の原発を止めた東電が、最終的にすべてを再開するまでに2年3カ月を要した。

 「自分が担当の時に、データの帳尻合わせのための改ざんを止める気にはならなかった。事を荒立てたくなかった」。90年代に福島県内の原発で働いていた東電元社員は、「トラブル隠し」の現場をこう振り返った。

 原発の点検業者から提出された記録の数値が不自然なほど基準に沿い整っているのに気づいて指摘すると、業者は「長年、そう変えている。歴代の担当はみなさん、ご存じですよ」。東電が業者にほころびのない記録提出を求め、業者が無理にそれに合わせる構図で、元社員は「東電本社も知っていて黙っていた」と言う。「原発の安全性には影響ない、というのが言い訳だったが、そこには自分たちが一番の専門家だからというおごりもあったと思う」

 原子力安全・保安院は02年10月、トラブル隠しの原因について、「原子力部門へのチェック機能がマヒ」「社内監査も形骸化していた」などとする報告書をまとめた。だが、当時を知る東電本社の幹部は「組織の見直しだけで済む話ではない」としたうえ、「原発への厳しい規制の中で、安全神話を崩すような事態だけはうそをついても避けたい、という病的な集団心理は簡単に変えられるものではない」と嘆いた。

 トラブル隠しの発覚後、佐藤は02年9月、リサイクルしたプルトニウムとウランを混ぜた核燃料を福島第一原発3号機で燃やすプルサーマル計画の受け入れも撤回。その後も慎重な姿勢を崩さなかったが、06年9月、実弟が仕切り役とされる県発注工事の談合事件摘発で、辞職に追い込まれた。ダム工事をめぐって収賄罪にも問われ、一、二審とも有罪判決を受け、現在は最高裁に上告中だ。

 「国や東電の言うことをうのみにしてはだめだ」と安全神話を疑い続けた佐藤が表舞台から去ったことで、プルサーマルの推進に向けた論議が再び高まる。県が受け入れを再度表明した後の昨年10月、3号機でプルサーマル発電が始動。だが、約半年後の東日本大震災により、その3号機も深刻なダメージを受けた。

 東電元社員は、東電が最近になってようやく、福島第一原発1~3号機の炉心溶融(メルトダウン)を正式に認めた際、トラブル隠し当時と変わらないものを感じたという。「都合の悪い事実を表に出すことへの抵抗感が根強い。事なかれ主義がしみついていて、それでもまだ安全と思いたい意識から抜け出せない」=敬称略 (斎藤智子)

▽プルサーマルで核燃料再利用
 原子炉で核分裂を起こしたウラン燃料は、一部がプルトニウムとなる。日本では使用済み燃料を再処理してこのプルトニウムを取り出し、再び燃料とする「核燃料サイクル」がエネルギー政策の切り札に位置づけられてきた。当初は「高速増殖炉」がサイクルの中心とされたが、実現のめどはない。このため、プルトニウムとウランを混ぜた混合酸化物(MOX)燃料を通常の原発で燃やす「プルサーマル計画」が代替手段として浮上した。

 電気事業連合会は1997年2月、各電力会社がプルサーマルを導入する全体計画をとりまとめ。当初は、2010年までに16~18基での実施を目指していた。

 政府も97年、計画の実施を閣議了解し、原発が集中する福井、福島、新潟の3県知事に協力を要請。いったんは3県とも了解したが、燃料のデータ改ざんの発覚などで計画は凍結され、東京電力のトラブル隠しが判明し、さらに困難となった。

 一方、他の電力会社は計画を進め、九州電力の玄海原発(佐賀県)は09年に全国で初めてプルサーマル発電を開始。10年3月には四国電力の伊方原発(愛媛県)でも始まった。東電は同年、福島県に改めて協力を要請。受け入れが決まり、同年10月から福島第一原発でも実施されていた。

■プルサーマル計画をめぐる動き
1997年 MOX燃料を使うプルサーマル計画を進める閣議了解
1998年 福島県が計画を事前了解
1999年 MOX燃料の品質管理データの捏造(ねつぞう)発覚
      茨城県東海村の核燃料加工会社JCOで臨界事故
2001年 東電の新規電源開発の凍結受け、福島県がプルサーマル受け入れ凍結
2002年 原発トラブル隠しが発覚。東電首脳陣が引責辞任
2003年 トラブル隠しを受けて東電の全原発が停止
2009年 九電玄海原発3号機で国内初のプルサーマル開始
2010年 四電伊方原発3号機でプルサーマル開始
      福島県がプルサーマル受け入れを表明
      東電福島第一原発3号機でプルサーマル開始

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*朝日新聞2011.5.30朝刊
◆神話の陰に―福島原発40年⑥ 

「国策」と追従・・・情けねえ

 福島から送られる電気が都会を照らす。その歴史のはじまりは、原子力の登場よりはるか昔、およそ100年前にさかのぼる。

 福島県の中央に位置する猪苗代湖は「天鏡湖(てんきょうこ)」と呼ばれる。湖畔から車で10分。磐梯山のふもとに猪苗代第一発電所が見えてくる。第1次世界大戦が勃発した1914(大正3)年に動き始めた現役の水力発電所だ。東京・田端へ続く226キロの送電線は当時、世界3位の長さを誇った。

 渡部恒三(79)は戦後、この会津の地から早大進学を機に上京した。

 「山手線なんて、猪苗代から来る電気で動いていた。『福島の発電所止めると、電車動かんぞ』って、そりゃあ自慢だった」

 ただ、東京の煌(きら)めきを実感するほど、故郷を思わずにはいられなかった。

 「冬は雪深くて『陸の孤島』になっちまう。みんな仕方ないから、囲炉裏端で肌ふれ合わせて寒さをしのいでたんだ」

 福島を豊かにしたい。 渡部は政治家を志す。
    □  □
 「近い将来、田中角栄氏や中曽根康弘氏に負けない力づよい真の政治家に」

 福島第一原発の建設が始まった2年後の69年、国政に初挑戦した渡部は選挙公報にこう書く。

 数の力で利益誘導を進める田中と、自主独立国家の再建を目指して憲法改正を唱える中曽根。18(大正7)年5月に生まれ、47年衆院選で初当選したふたりは、自民党が結党以来抱える二つの「業」を体現していた。

 中曽根は54年、日本初の原子力予算成立に中心的役割を果たす。

 「『原子力の平和利用』って、中曽根さんのあの言葉は忘れないなあ。長崎、広島で原爆はこの世で一番恐ろしいものだと思ってたから。中身なんてわからねえけど、この人すごいこと言うなあって」

 だが渡部は72年、田中派結成にはせ参じる。高度経済成長の陰で都市と農村の格差が広がる中、全国に新幹線を走らせ、高速道路を通すという田中の「日本列島改造論」は、ひときわ強い光を放っていた。

 74年、田中内閣で通産政務次官に抜擢(ばってき)される。通産相は中曽根。各地で原発の運転が始まりつつあった。

 「おれが政治の世界に入った頃にはもう、原発は安全だ、日本は原発で高度成長していくんだというのは、賛成、反対以前の『国策』だったんだ」

 原発立地を促すため、田中内閣は電源三法による交付金制度をつくる。「札束で反原発の住民運動を圧殺しようとしている」との批判に、田中は「電源開発地帯に恩恵を与えなければならない」と反論した。

 渡部はその後、自民党の商工部会長や電源立地等推進本部事務局長を歴任し、91年に通産相に就く。「党の領袖(りょうしゅう)になろうとするなら、財源をつくる政治家になれ」。田中にこう鼓舞され、地方への利益誘導に励んだ。エネルギー予算を前年度より5割も増やしたと、地元で胸を張ったこともある。

 「中曽根さんの原発は哲学。オレら田舎もんは地域振興。そこは違ってたなあ」

 水力も火力も原子力も、渡部にとっては同列だった。安全神話にどっぷり浸って生きてきたんだな、情けねえ、恥ずかしい……。この2カ月ですっかり増えたという白髪頭を机にこすりつけるようにして、渡部は繰り返した。
    □   □
 米国は79年のスリーマイル島での事故以来、原発を新設していない。日本は86年のチェルノブイリ事故を経てもなお、政界、財界、官界が一体となって「安全神話」を守り、国策を推し進めた。

 自民党の長期政権の下でいったん出来上がった利益分配システムは、時を重ねるごとに強固になり、政策転換は難しくなった。渡部が93年に自民党を飛び出した大義名分は、政権を担いうるもうひとつの政党をつくり、政官業の癒着構造を打ち砕くことにあった。民主党最高顧問となった今、渡部は自らの歩みをこう振り返る。「二大政党は、大失敗だった」

 民主党政権で「安全神話」が問い直された形跡はない。それどころか、原発の海外輸出を進めるに至った。事故がなければ、原発依存はますます強まっていっただろう。

 政権交代すれば、日本政治の行き詰まりを打開できる。これも「神話」だったのか。原発事故が問いかけているのは、数々の「神話」に乗っかって思考停止し、社会の進む道について他人任せにしてきたわたしたち日本の民主主義のありようだ。=敬称略 (高橋純子、冨名腰隆)

▽立地と政治家 密接
 日本で運転中の商用原発は計54基(福島第一含む)。1道12県に及び、10基を抱える福島は福井の13基に次ぐ原発銀座である。

 建設のピークは1970~80年代だが、立地地域の多くは60年代に選ばれた。各地に共通するのは強い保守地盤であり、有力な自民党の政治家がいたことだ。

 新潟の柏崎刈羽への立地が決まった60年代後半、田中角栄は自民党幹事長を務めた。福井では62年に参院議員になったゼネコン出身の熊谷太三郎が強く建設を推進したとされる。島根では通産相や建設相を歴任した桜内義雄の存在が大きい。桜内の兄は中国電力の会長を務めた。

 福島は自民党の国会議員から知事に就いた木村守江や地元出身の東京電力社長・木川田一隆が誘致を主導した。

 自民党は、原発を国策で進めながら、関連企業の進出や雇用創出の効果もうたった。地域振興を望む過疎地域ほど原発誘致への期待は高まった。


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*朝日新聞2011.5.31朝刊
◆神話の陰に―福島原発40年⑦
 現場の要 自負と怖さと
 福島第一、第二の次は浜岡、柏崎刈羽、島根、高速増殖原型炉もんじゅ……。福島県いわき市の電気技師、戸部常義(61)は約40年間、各地の原発で働き、渡り歩いてきた。

 原発に深く関わったきっかけは「カネ」だった。

 最初は20歳のころ、福島第一原発1号機の建設に加わった。当時の日給は7千円前後。地元の同世代の仲間の「倍はもらった」。

 月給は今も原発以外の同業より10万~15万円ほど高い。仲間の多くが、30歳前後で家を手に入れる。戸部がいわき市で5LDKの一戸建てを建てたのも、33歳の時だ。だが、その家に帰るのは、盆と正月くらい。「せつねぇんだけどな」。流浪を嫌って、辞める人も多いという。

 東日本大震災で、妹が津波に流されて死亡した。4月中旬、廃棄物処理施設の工事のため、福島第一原発の復旧現場に戻った。近い将来、一線を退くつもりでいたが、事情が変わった。

 「俺たちがいないと、どうにもなんねぇから」。その言葉に、ベテラン作業員としての自負がにじむ。

 原発との共生関係は、作業員だけではない。東京電力の柏崎刈羽原発がある新潟県柏崎市で、小料理店「招楽」を営む女将(おかみ)、本田麗子(61)は「原発のおかげでここまで生きてきた」と話す。

 実家は、福島第一原発から8キロほどの福島県浪江町。1960年代に第一原発の建設が始まると、全国から集まった作業員を泊める旅館を両親が始めた。本田は高校卒業後9年間は東京で過ごしたが、20代後半で実家に戻り、旅館を手伝うようになる。

 宿泊者の多くは東芝や日立製作所など原子炉メーカーの作業員。朝寝坊した作業員の布団をはぎ、朝食は移動の車中で食べられるようにおにぎりを持たせた。作業員はお返しに給料ですしをとってくれた。「家族みたいだった」。やがて、本田は旅館内に「まねく」というスナックを開く。作業員たちが詰めかけた。

80年代に柏崎刈羽原発の工事が本格化したのに合わせ、作業員も柏崎市に流れた。本田も85年、2人の娘を連れ、「まねく」とともに柏崎市へ移った。今ではビル1階の「まねく」を次女に任せ、2階の招楽を仕切る。福島第一原発の事故後、本田は、浪江町の実家から母と妹、犬3匹を呼び寄せた。
   □     □
 原発の近くで、その存在に疑問を抱き続けた人もいる。双葉地方原発反対同盟の代表を務める石丸小四郎(68)が福島県富岡町に引っ越したのは、64年。郵便局の研修で知り合った女性と結婚し、移り住んだ。

 福島第一原発の建設当時、反対運動がなかったが、原子力の平和利用に賛成だった日本社会党が反対に転じた72年、福島県にも「反対同盟」が誕生した。

 石丸は、71年に社会党県議として初当選した岩本忠夫(82)に誘われ、同盟に参加した。石丸は「彼の『核と人間は共存できない』という言葉が心に触れた」と振り返る。

 73年9月に福島市で開かれた福島第二原発の建設をめぐる公聴会には全国から労働組合員らが集まり、「公聴会阻止」を目指してデモを展開。県都は混乱に包まれた。しかし、県内の運動が大きく盛り上がることはなかった。75年から3回連続、県議選で落選した岩本は反対同盟の代表を辞任し、84年には社会党から離党。原発の推進論者に転じ、85年から5期20年にわたって双葉町長を務めた。

 石丸はその後も反対同盟の活動を続けた。原発作業員の追跡調査を行い、労災申請の支援もした。町で原発反対の話題はタブーだったが、「原発で働く息子に何かあったら助けてくれよ」とひそかに頼みに来る住民が多かったという。
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 福島第一原発で計器の点検を担ってきた浪江町出身の杉本幸一郎(33)は、父も原発作業員。高校を卒業後、父と同じ道を選んだ。「地元に残れるし、安定しているから」

今年3月11日。杉本がいた第一原発4号機のタービン建屋も激しく揺れた。「津波が来るぞ」。けたたましいサイレンの中、必死で高台へ逃げた。翌日、両親と浪江町を離れ、避難所を転々とした後、会社の出張所がある柏崎市に移った。

 5月、茨城県東海村の原発での仕事が入ったが、作業前のホールボディーカウンターでの体内被曝(ひばく)検査で「放射線量の数値が高い」と受け入れを拒まれた。5月末からは福島第一原発での作業を命じられた。第一原発の作業での上限放射線量は250ミリシーベルトに引き上げられており、「線量が多少高くても問題はない」との判断だ。

 これまで、原発での作業を「怖い」と思ったことはなかったが、今回、初めて不安を感じた。だが、幼い2人の子どもを抱え、会社を辞めるわけにもいかない。「大丈夫なの」と不安がる妻には、「危険な建屋には入らないから」と安心させた。今回の作業は1週間ほどで終わる見通しだが、また呼び出される可能性は高い。「結局、やるしかないです」

 一方、東日本大震災の後、秋田の親戚宅に避難している石丸は今、こう感じている。「原発への賛成、反対を問わず、放射能は同じ被害をもたらす」 =敬称略 (中村信義、佐々木学)

▽作業員の大半 地元採用
 東京電力によると、福島第一原発の雇用数は昨年7月現在で6778人。うち、東電社員は1087人だけで、5691人は407社の「協力企業」の作業員だ。9割以上を地元福島県から採用している。

 第二原発でも東電社員755人に対し、協力会社は180社3796人。原発は地元に大きな雇用をもたらした。

 だが、作業員の労働環境は決して恵まれていない。1970年代に福島第一を含む三つの原発で働いたライター堀江邦夫さん(63)は、自著「原発ジプシー」(現代書館)で、作業員が親会社などに「ピンハネ」されている実態や、被曝(ひばく)のずさんな管理の状況を明かした。

 堀江さんによると、30年たっても構造に大きな変化はなく、原発内で放射線を浴びた年間被曝量でみると、電力会社員分は全体の3%ほどで、残りは協力会社の作業員らの被曝量だという。

 放射能の存在という特殊性から経験者を重用する雇用側と、給与水準を維持したい働き手の利害で、特定の作業員が長期間、各地の原発を転々とする状況が生じているという。

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*朝日新聞2011.6.1朝刊
◆神話の陰に―福島原発40年⑧

 地震警告 耳をふさいだ国
 高さ10メートルの防波堤を乗り越え、津波は東京電力福島第一原発をのみ込んだ。

 予備電源が水をかぶり、燃料を冷却できなくなった原発は、水素爆発を起こした。旧ソ連のチェルノブイリ原発と並ぶ最悪の放射能汚染事故にいたった。

 震災2日後の3月13日、東京電力本店。社長の清水正孝(66)は謝罪した。

 「わが国が経験したことがない大規模地震といった自然の脅威とはいえ、このような重大な事故に至ったことは痛恨の極み」

 巨大津波を起こしたのは、日本の観測史上初のマグニチュード(M)9級となる巨大地震だった。プレート(岩板)の生成年代が古い日本海溝で、巨大地震は起きないという日本の地震学の常識が覆された。
   □    □
 3月11日。京都大学名誉教授の入倉孝次郎(70)は霞が関の文部科学省で、大きな揺れに遭遇した。地震学者の入倉が瞬時に気にかけたのは原発の安否だった。近くにある内閣府の原子力安全委員会の事務局員に問い合わせた。入倉は安全委の耐震安全性評価特別委員長も務める。

 大学の助手になり、学者の道を歩み出した1968年、地震学は未熟だった。いまや常識となったプレートテクトニクス理論すら確立していなかった。

 福島第一原発の建設が始まったのはその前年。原発に課せられたのは、地震で揺れても壊れないよう、一般建築物の3倍頑丈に造ることで、具体的な津波対策はほとんどなかった。

 地震学はその後、急速に進展し、78年、活断層を想定した原発の耐震指針ができた。その後も最新の知見に沿って見直しを求める声はあった。だが、採り入れられることはなかった。

 入倉は初めて原子力にかかわった時のことを思い出す。90年代初めごろ、青森県六ケ所村の核燃料サイクル施設の安全審査に呼ばれた。隠れた活断層も考慮すべきだと主張したが、受け入れられず、やがて審査に呼ばれなくなった

安全委の委員長代理を務めた大阪大学名誉教授の住田健二(80)は「原発の増設がまだ続いた時代。議論が遅れることは電力会社にとって都合が良かった」と振り返る。

 95年、阪神大震災が発生。原発は阪神大震災にも耐えられるのか。原子力安全委員会は検証したが、震災のわずか8カ月後に、耐震指針は妥当と結論した。

 入倉は憤った。入倉は阪神のとき、活断層の真上ではないのに被害が集中する「震災の帯」を見つけた。被害は地域に固有の地盤構造に依存する。「個々の原発立地地域の地下構造を調べるべきだ」と訴えた。

 訴えがかなったのは6年後。2001年、見直しの作業が始まったが、議論は進まなかった。発生確率が小さい大地震をどう考えるか、委員の意見が割れた。

 入倉は「頻度は小さくても、調査に基づいて、地震の揺れを評価すべきだ」と主張したが、原子力研究者からこんな言葉をよく聞いた。「原発の安全対策は地震だけじゃない。想定を多少上回っても防げる」。リスクに対する真摯(しんし)な姿勢は感じられなかった。

 揺れが従来の2~3割増しとなる新耐震指針ができたのは5年後の06年。指針では初めて津波対策も打ち出されたが、福島第一では後回しにされた。実際の対策につなげる「手引」ができたのは昨年12月。大震災が起きたのは、そのわずか3カ月後だった。
   □   □
 「地震防災の一端を担うものとして悔やんでいる」

 5月12日、東電本店に近い内幸町の日本プレスセンター。東京大学名誉教授の島崎邦彦(65)は講演で唇をかんだ。

 島崎は地震予知連絡会の会長で、国の地震調査委員会の長期評価部会長も務める。部会は阪神大震災後、国内で起きる大地震の規模と確率を評価してきた

 今年2月、東日本大震災と浸水域が似る869年の貞観の地震・大津波を審議した。4月にも議論し、内容を公表して津波の危険性を指摘するはずだった。「もっと早く発表していたら被害は減ったはず」と思うと無念さが募る。

 島崎にも、電力業界の壁が立ちはだかっていた。

 部会で原発近くの地震の評価を発表すると必ず、電力業界の人から「想定する地震のマグニチュードが大きすぎる」と反論された。「事故を起こせば大変危険な原発こそ、最悪の地震を想定すべきなのに」。そんな思いをのみ込むことも少なくなかった。

 ただ、問題は電力会社だけではないとも思う。

 大地震のリスクに対して、「手に負えない」「まれにしかおきない」と逃げ口上をつくって具体的な対策を先延ばしにしてきたのは日本社会全体だ。

 「守るべき本当に大切なものは何か。阪神大震災から16年たち、みんな忘れてしまっていた。日本中が思考停止していた」=敬称略(桜井林太郎)=おわり
    ◇
 地球の陸地の0.3%の日本とその周辺の海で、世界の地震の約1割が起きるとされる。そこに世界の12%に相当する54基の原発が集中している。

 日本の原発建設は1960年代に欧米の設備をそのまま輸入する形で始まったため、日本の実情に合うきめ細かな地震対策が当初はなかった。

 78年、初めて国の耐震指針ができ、近くの活断層や、海のプレート境界で起きる地震などを想定し、それに耐える設計を求めた。

 以後、耐震安全性は原発の是非をめぐる大きな焦点になった。

 青森県六ケ所村の核燃料サイクル施設や、原発が集中立地する福井県の若狭湾周辺、四国電力の伊方原発(愛媛県)など、特に施設近くの活断層をどうとらえるかで、地域住民らと電力会社で意見の違いがあり、訴訟でも争われた。中国電力の島根原発などでは、活断層の見逃しも発覚した

プレート境界型では、東海地震の想定震源域にある浜岡原発を巡る訴訟で、一審は運転差し止めを認めなかったため、住民側が控訴し継続している。菅直人首相が5月6日に、津波対策などが完了するまですべての原子炉の一時停止を要請し、中部電力が受け入れたが、住民側は27日にさらに廃炉を求める訴訟を起こした。
    ◇
■原発と地震をめぐる動き
1967年 福島第一原発1号機の建設開始
  71年 同1号機が営業運転開始
  78年 国が原発の耐震指針を策定(81年に一部改定)
  95年 阪神大震災(M7.3)、8カ月後に指針は「妥当」と結論
2000年 鳥取県西部地震(M7.3)。発見されていなかった活断層が動いた
  01年 耐震指針の見直し作業開始
  06年 耐震指針、28年ぶりに全面改定。新指針に基づき、既存原発での安全性の再検討(バックチェック)開始
  07年 新潟県中越沖地震(M6.8)。柏崎刈羽原発で想定を大幅に超える揺れ
  11年 東日本大震災(M9.0)。福島第一原発で新指針での想定を超える揺れと津波
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はじけるしゃぼん星

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この記事へのコメント

珊底羅
2011年06月08日 00:18
 今晩は。
 福島原発の事故で原子力というものを理解できなければ頭がおかしいのに決っている。全て廃炉しても管理する方法がない、莫大な時間と金がかかるのた。暗部が浮き彫りになって人と思わぬ所業に国会や裁判で吊るし上げねばなるまい推進派を。
2011年06月08日 12:08
ニワゼキショウきれいですね!こんな見逃してしまいそうな小さなお花にも
強い生命力を感じます。二人のお母様を看ておられるののはなさん。毎日時間に追われているのでは・・・。私の身の回りにもそういう方が何人かいらっしゃいます。そしていくら「長生き」されても「寿命」といわれてもやはり肉親のお別れはつらいですね。ののはなさんもお気をつけて、ご自愛くださいね。
珊底羅
2011年06月10日 14:19
 今日はる
 福島の事故で地球は汚染されてしまった。推進派は福島県の子供達のために経済援助のために基金でも創設するべだ。治療費、学費なども含めて。情報を偽って出すのも問題だが、鵜呑みするのも悪い。風評被害減らすのは大人の役目。
2011年06月10日 21:04
ご親族が大変な状況なのに、原発いや日本のことを心配されているののはなさんに、敬意を表します。

自分が信じたくないデータや資料を無視することの危険性。
今回の原発事故は、まさに人災ですね。
さらに、都合の悪いデータを隠蔽する東電。
何をかいわんや、です。

緑濃い佐倉城址公園、もうすぐ花菖蒲が咲きそろいますよ~。
2011年06月11日 00:47
今回の原発事故を経てもなお原発推進派が活動の手を緩めずにいることの怖さを感じています。
一日も早くなんとか自然エネルギーへの道筋をつけて行かなければ…と毎日思っています。小さな自治体の一つ一つから声をあげて行動すれば、少しずつでも変化して行くのではないかとも考えています。

ののはなさんのお母様も大変な時でしょう。。
どうかお体にはお気をつけて・・・
>いま ようやく
どんなに母を愛していたかを知る<
せつないほど、ののはなさんのお気持ちがわかります。。
2011年06月12日 21:21
京都でも福井県に関電のたくさんの原発を抱えています。
住民運動の盛り上がりの中で福井県の原発実態調査に府市会議員と政党が出かけましたら・・・福井県の原発担当職員は原発事故があったとしても「滋賀県琵琶湖」にひさいあを与えるなどと全く想定していないと答えるなど・・・ここに至っても、安全神話に取りつかれています。
もっとも札束でほっぺを叩かれているのだろうとも思いますが・・・原発反対の声を世論を署名で具体的に反対を組織したいですね。
2011年06月13日 10:32
政治イデオロギーに捉われることなく自己発言中です
今度の原発に対して、今でも推進の立場をとれるということは人間性を疑ってしまいます
何も現状から学ぶことの出来ない一握りの妄信経済優先政策推進の下で妄信している守銭奴隷たちが、今でさえ老人大国の日本から若者や子どもの命を奪ってまで醜い自己陶酔の政治を行っていることに、魔女は今回は許せない!
この先何年間かかるのでしょう?
子どもが奪われて気ずくのをまつのでしょうか?
あの時なぜ、親たちは真剣に子どもの未来を案じて立ち上がってくれなかったのか
と。。
お母様とともに穏やかな時をお過ごしくださいますように

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